プロデュース日記|Zene―移ろうすべてが、作品である―

「プロデュース日記」シリーズでは、noName Managementが手掛けるブランド・プロジェクト・作品とプロデュース・マネジメント過程におけるnoNameのスタンス・プロデューサーの想いをお届けいたします。

プロデュースに正解はありません。

noNameのブランド観やプロデュース・マネジメントするうえでの向き合い方・「ナナメの関係性におけるプロデュース」をお感じいただければ幸いでございます。

「完成させようとしなくても、進化していくプロジェクトでいいじゃないですか」

そう言ったのは、あまりにも短い準備期間のせいでもなんでもない。
彼女たちが組んだら、そうなっていくのが必然だと思ったからだ。

もうすぐ、最初の展示イベントがおわりを迎えようとしている、Zeneというプロジェクトについて、書き残しておきたい。

目次

ふたりで、展示をすることになりそうなんです

noNameのコアのひとりであるチハルちゃんが、相談してきてくれたのは5月下旬のこと。

「juriさんとふたりで、展示をすることになりそうなんです。7月になると思うんですが、準備期間が短いんですけど、やってみたくて」

チハルちゃんのキャリアを顧みると、よくこの短期間でこんなに変わったし、こんなにたくさんのトライをしたし……と、それだけで本3冊くらい書けそうなものなのだが、それはまたの機会にしておく。

実質の準備期間は1ヶ月もないだろう。それでもやりたい、という彼女の目には、戸惑いや不安がゼロとは言わないが、「やってみたい」「なんかいける気がする」の気持ちのほうが勝っていたように思う。

このときにはまだ、juriさんの気持ちを聴いていないから、どんなふうにプロジェクトが進むのかとワクワクしつつも、チハルちゃんのこの「2年前にはなかったはずの楽観」が大庭の着想の大きなヒントになった。

ふたりのちがいと共通点

最短でアレンジされた打ち合わせと、展示会場となるナカニシ珈琲さんへのご挨拶。
彼女たちとの対話を重ねながら、これまでの作品や動きに思いを馳せた。

チハルちゃんとjuriさんは、作風もちがうし、作品との距離感も、パーソナリティもちがう。

なにが最も大きく異なるのかと言われれば、そのひとつが「大丈夫だ」「大丈夫だろう」と安心したり、納得したりできるポイントである。

ひとりは、作品を世に放つまで、不安で不安でしかたない。
けれども、その作品を描き終えて(書き終えて)誰かの目にふれるとき、手にとられるとき、「もう大丈夫だ」と、不安が切り離されるようにみえる。
それは、不安を手放した、不安がなくなった、ということではなくて、新たな不安を抱えて、次の作品をつくっていく人なのだろう。

もうひとりは、作品をつくることそのものや、その過程には、たいして不安を抱えていない。
作品が誰かの目にふれたり、手にとられたりするときには「あぁ大丈夫かなあ、伝わるかなあ」と、震える手を抑えるのに必死。
だから、ある意味作品が「完成すること」はなくて、誰かのもとに届いてもなお育て続け、次の作品でもまた対話を重ねていく人なのだろう。

それぞれがどちらなのかは、作品が語ってくれる。
ぜひ会場で、あるいは別のイベントで、彼女たちの作品に直接ふれて、答えをみつけていただきたい。

それでも、ふたりには共通点があった。

それは、作家であるがゆえのある種の孤高さや気品、気高さのようなものを持ち合わせていながらも、
びっくりするくらい人間が好きで、大庭が家のなかでスカートを踏んづけてズッコケた、みたいなどうしようもないエピソードに笑い、創作活動を生業としてだけでなく「生きることそのもの」(ある種の「営み」にちかい)にしている、という点である。

端的に「いい感じの作家さんが2人展をしまーす」なんてプロデュースをするつもりはさらさらなかった。
ふたりの間に宿り、周りに波及する世界観があるはずである。
その答えを探すのに、残り時間を気にしながらも、ハイスピードでシナリオを書いては「これじゃない」と思いなおし、3人で対話のキャッチボールを数日間続けた。

打ち合わせの帰り道につながった点

ナカニシ珈琲さんが会場をご提供くださることは内定していたので、ご挨拶をかねて、構想を練り上げるためにお店を訪問した。

ナカニシ珈琲さんの店内の設えや動線を確認しながら、ここにこんなふうにものを置けるだろう、こっちはこうだな……と想像をふくらませる。

具体的な空間のつかいかたはすべて、得意とするチハルちゃんに委ねていたし、
ふたりの作品をただ置くだけでなく、相互キュレーションすればいいね、などと話していたので、キャラクターデザインや描き下ろしはjuriさんのターンになる予定までは、それまでの打ち合わせでみえていた。

けれども、ふたりと、そしてこの空間をつなぐ世界観のコアになるものに、名前をつけられずにいた。
そこまで出かかっているのに、である。

「音楽」と言ってしまうのは、簡単なこと。
クラシック音楽が大好きで、本まで書いてしまったjuriさんと、
自分の身体より大きなコントラバスを担いで手懐けているチハルちゃんと、
マスターがサックス奏者でもあり、お店ではつねにジャズやお気に入りの音楽が流れているナカニシ珈琲さん。
わかりやすいフラグとして音楽が存在するのは、明確だった。

たりない。
「音楽」じゃない。
もっと言えば、日本語の「音楽」じゃない。
そう感じるたびに、アクセルが踏めなかった。

なぜ「音楽」ではたりないのか――

ナカニシ珈琲さんからの帰りに、チハルちゃんにこうつぶやいた。
「juriさんって、どこにいそうでしょうねぇ」
「どこにいそう、って、どういうことですか」
「国とか、地域とか」
「うーん……」
アジア圏というより、もう少し風を感じられるエリア。
オセアニアの島々では、開放的すぎる感じ。
動物をたくさん描いているけれど、アフリカよりもファンタジーな感じ。
ラテンではなさそう。
うーん。

音楽。

チェコ。ちがう。
ベルギー。惜しい。ちょっとちがう。
スイス。うーん、もうちょっとスモーキーなんだ。
オーストリア。うーん、ますます惜しい。
バルトじゃないね。そこまで北じゃない。
繰り返すけれど、ラテンじゃないのよ。地中海まで行かない。

うーん……
ハンガリー?

チハルちゃんも、ハンガリー似合うね。
ナカニシ珈琲さんにも、合う。
ハンガリーだ。
まちがいない。

車内でハンガリー語の「音楽」を調べる。
Zene。
ふたりが書いている「Zine」に語呂は似ているし、
語源をたどれば「Zenebona」というガヤガヤ騒ぎからうまれた言葉だと知る。

これだ。
まちがいない。

「ちょ、ちょっと、あとでノート送ってくれますか」
横で運転してくれるチハルちゃんを困惑させつつ、確信をもった。

「うつくしいものをとりだす」

その後すぐに、プロジェクトのコンセプトストーリーや物語、キャラクター設定を書き下ろしていった。

「喧騒」を意味するZenebonaという語から「音楽」を指すZeneがうみだされた理由。
それは言葉の神様や現地の文化に問うてみても、わかるかわからないかの話である。
けれどもきっと、音楽やうつくしいものは、雑多なもののなかにある――

そんなメッセージのこもった言葉のように、感じられた。
それは、彼女たち、それから、ナカニシ珈琲さんそのものだった。

絵や本をつくりだすことも、雑貨にすることも、おいしいコーヒーを届けることも、空間づくりも。
放っておけば埋もれていく雑然のなかにあるものを、「これがすばらしいんだよ」「こんなに愛おしいんだ」ととりだして、届けること。

それがZeneにとっての「音楽」であり、クリエイションである。

そのありかたをそのまま、Zeneのスピリットとして宿せたらと、プロジェクトが走り出したいまも願っている。

進化するプロジェクト

繰り返すが、Zeneにははじまりから最初のエキシビションまで、ほとんど時間がなかった。
実質1ヶ月足らず。
通常の展示ならば、ありものを並べました、とするだけであっても、精一杯といったところだろう。

不足しているお品の追加発注もある。
搬入やレイアウトもある。
額装するものについての調整も、案外シビアである。
会場ごとのレギュレーションや動線に配慮しながらであれば、既存のものを並べ尽くすだけでも、はっきり言って時間はたりない。

だから、というわけではないが、
彼女たちに最初からお願いしていたことがあった。

「完成させようとしないでください」
「会期が長いから、会期中に変化していくのも、面白いじゃない」

なんとなくの直感ではあったが、これが一回きりのプロジェクトにはならない気がしていたから、
そうお願いしていた。
結果的に、会期中に新たな作品が出たり、
「準備中」のパンダ店長の表示が消えてオリジナルグッズが追加されたり……
何度も足を運んでくださった方もいると聞いた。

こんな展示、稀有である。
会期の最初の頃に訪問された方は、あと数日あるので、ぜひ再訪願いたい。

訪問するたびに、私自身も心を揺さぶられてしまう。
自慢ではないが、他の誰よりも、Zeneの熱狂的なファンだと思う。

彼女たちと一緒に行くと、心がグラグラしているのをみられてしまうので、
何度かひとりで通っているのは、ここにこぼしておこうと思う。
ナカニシのマスターとママさん、黙っておいてくださって、ありがとうございます。

P殺しのタイミング

ここだけの話、Solvision(武蔵の個人ブランド)のリリース(リブランディング)と重なって、同時進行だったから、大庭自身は何度か死んでいる。

それは、彼女たちのせいでもなく、彼のせいでもなく、あくまで私の取り組み方ゆえというか、プロデュース過程における必然のようなものなので、後悔はしていない。

Solvisionの場合は、ブランド全体をぐーっとつくりあげるものであったし、カードの再構成とか、言い回しのひとつに至るまですべて変えていったし、
なにより会社を一緒にやっているバディであるという距離の近さからくるとんでもない圧があった。

それにくらべてZeneは、「まあ言うてもひとつのプロジェクトですし」くらいに、余裕をカマしていた当時の自分を吊るしてやりたい。ナメすぎである。
チハルちゃんのことも、juriさんのことも、好きすぎる。
ナカニシ珈琲さんにも、通えば通うほど、沼っている。
正直に申し上げて「こんなに入れ込んでしまうのは、想定外」であった。

幸せなことである。

私は、自分の愛するものしかプロデュースできない。
それで死んでしまうなら、本望である。
それをわかって、遠慮されていることも知っている。

だから、チハルちゃんにも、juriさんにも、もうこれ以上遠慮しないでほしいと思っている。
「配慮はするが遠慮はしない」
これが、noName的な価値観である。

ちなみに、この期間も武蔵の遠慮はなかったと、思いたい。
遠慮しているのだとすれば、ちょっと裏庭までご同行いただく案件である。
最高のブランドになったじゃねえか。Solvisionのことは、またの機会に。

続いていく、変わっていく

ところで、音楽は一期一会である。

収録されたものもそう。
味わう場所やタイミングがちがえば、別のものになる。

昨日の私ときょうの私はちがう。
生の演奏なんて、なおのことちがいが出る。

関係するすべてが、変数なのだ。

音楽だけでなく、アートもクリエイションもそうだと思う。
温度も変われば空間も変わる。
なにより、人はかわる。いちばん厄介で、いちばん愛らしいパラメーターである。

それこそが、チハルちゃんとjuriさん、そしてナカニシ珈琲さんをつなぐ世界観だ。
もうちょっとドライになれば楽だろうに、と心配したくなるくらい、
それぞれに人が好きなのだろうと思う。

「人」にフォーカスすればするほど、対話がうまれる。
対話のむこうに物語があることを知っているがゆえの、世界がある。
それが、Zeneである。

最初のイベントのサブタイトルを「Bevezetés」(前奏)とした理由も、それだ。

だから、Zeneは変わりながら、続いていく。
どんなかたちになっても、たぶんね。

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